「店蔵 絹甚」の歴史

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 「店蔵 絹甚きぬじん」(以下、絹甚)がある飯能大通り商店街は、古くから「縄市」と呼ばれた六斎市が開かれていた。明治初頭になると、常設店舗が軒を連ねるようになり、現在の街並みの原型が形づくられる。「絹甚」が建てられたのは、明治37年(1904年)。火災への備えという目的もあったが、当時流行っていた江戸の風情を感じさせる土蔵造りを採り入れたのである。「絹甚」は、篠原甚蔵、長三親子によって建てられたもので、「絹甚」という名称の由来もここから来ている。



 篠原家は、江戸時代から当地にて商いを営み、明治期になると、絹関連の品物を取り扱うようになった。商品構成は幅広く、絹織物や太物(綿や麻の織物)の小売りをしながら、周辺の関連業者向けに生糸、繭、蚕種(蚕の卵)などの売り買いを行っていた。

 その頃の飯能は、どのような町だったのだろう。明治37年といえば、日露戦争がはじまった年。列強諸国に対抗するために日本が国力増強を図っていた頃であり、養蚕や生糸の製造は基幹産業に位置付けられていた。こうした時代背景のなか、昔からの養蚕地であった飯能は、その立地条件を活かしながら近代化への道を辿ろうとしていたと考えられる。「絹甚」がある大通りは、当時、商業地としてかなりの一等地であったことが想像され、ここへの出店は商人たちにとって誇らしいことであったに違いない。

 明治42年、「絹甚」は人の手に渡っている。その後、甚蔵の娘で川越の小池家に嫁いだ小池奈賀が買い戻す。戦後は、奈賀の娘、小池トクが地元の教員をしていたため、昭和40年頃まで居住。トクの死後はトクの妹小池ヨシが相続するが、ヨシの死去にあたり直系相続不在となった。そして、平成16年、相続財産管理人を経て 、取得を希望していた飯能市に修理費用と併せて寄贈されることとなったのである。

町のシンボルに

 平成19年、「絹甚」は飯能市の文化財に指定された。以下はその指定文書である。
 『指定文化財 店蔵絹甚 飯能市指定第第六十一号』 飯能市有形文化財(建造物)に指定された。保存理由は次の通り。
 明治時代の商家として当時の姿をよく残す建物であり、当市の近代化を支えた絹織物に関連する建物として貴重である。店蔵絹甚が所在する地域は近世から市として栄えた地域であり、店蔵絹甚は市場町の明治時代における土地利用の状況を残す建物群として貴重である。

 保存と活用にあたっては、「絹甚保存活用検討委員会」「修理委員会」が設置され、市民や地域を交えて検討されることとなった。その前提として考えられたのが、町のシンボルとして多くの市民に愛される建物としていくことであった。
 幸い「絹甚」は大きな改修の跡もなく、おおよそ当初の状態が良好に保たれていた。関係者による議論が繰り返され、町のシンボルにするのだから、活用ありきの改修に重きを置くのではなく、歴史的価値を踏まえた保存を行うべきとの結論に達する。
 もちろん、それは活用を疎かにするということではない。上記の文化財指定文書にあるような飯能の歴史に根ざした魅力的で 有益な活用をめざそうとするものであった。

活用実績

 現在、「絹甚」の運営は、市民主体による「絹甚運営委員会」に任されている。開館時にはガイド1名が常駐し、「絹甚」の由来や規模、構造などの説明を行っている。その他の活用実績は次の3つにまとめられる。

1)ギヤラリー
 絵画、イラスト、書、オブジェ、クラフト、骨董などのギャラリーとして活用されています。地域に根ざした作品展示が多いのが特徴。飯能市内外の方から「ここでの展示は心地よく、作品に付加価値を与えてくれる」と、評価されています。

2)イベント
 「飯能ひな飾り展」の展示会場や、「飯能まつり」の会所として活用されています。どちらも飯能らしさ満載のイベントです。その他にも、寄席や演奏会、茶会などが開かれています。

3)飯能布塾〈絹甚運営委員会企画事業〉
 つるし雛を制作するボランティアグループ。彼女らが手づくりする布小物は、艶やかでかわいらしく、多くのファンがいます。当所にて毎週水・木曜日に活動しており、春先に実施される「飯能ひな飾り展」で作品が展示されます。

【出展者の感想】
●作品が映える
 少し歩けば川遊びや山歩きができる飯能のこの場所に在ることに意味があると思う。そもそも店蔵は、商品を展示・販売するために設計されているわけだし、重みがありながら洗練された空間は創作作品との相性が良い。

何とか残したい

 「絹甚」は、民間相続でなかったことが幸せだったという人がいる。民間相続されていれば、日常的に使用できるよう改修が施されるか、場合によっては解体されてしまうこともある。そうされなかったため、今あるような良好な状態を留めているという考え方である。
 効率重視の現代の生活スタイルと照らし合わせると、 重厚な土蔵での暮らしは不自由を余儀なくされることが多いであろうし、修理費用は一般住宅に比べて相当高額になる。その保存について、歴史的価値がある、風情がある、観光資源になるという理由により、個人の管理に委ねられるとなれば、それはそれで 大変なことだ。
 大切なのは、当の建築物にそれを補う以上の価値や可能性を見いだせるかである。苦労はするけれど、深い思い入れがあるので何とか残していきたい。そうした思いをできるだけ多くの人で共有し、課題については解決していく姿勢が問われている。飯能市内には「絹甚」の他にも、歴史的価値がありそうな建築物が多数ある。町の景観や文化のためにどれだけコストをかけられるかは、市民みんなで考えるべきテーマなのだろうと思う。


飯能情緒より引用